農業共同体見聞録10 平民社農場
~訪問記~
次の訪問先も現存する農業共同体ではありません。「有島農場」の20年前、ニセコ町の近く、現在の留寿都村で設立された、社会主義者の農業共同体「平民社農場」です。
【ウェブサイトも開設しました!纏まった情報はそちらに掲載!】
http://matsuokakenji.wixsite.com/nougyoukyoudoutai
~1日目~
10月30日(日)、ニセコ町の有島記念館を後にし、次に向かうのは留寿都村の「平民社農場」があった、かもしれない、場所です。かもしれないと言うのは、留寿都村字泉川という地域にあった事までは分かったのですが、正確な場所が、ネット上を探しても所法がなく、留寿都村の観光課に問い合わせしても、分からなかった為です。
記念館とかも何も残っていません。と言う訳で、泉川周辺を適当に散策して、適当に写真を撮って、載せます。
現在の泉川地区は、南の竹山・貫気別山から、村営牧場のある丘陵地帯を抜け、国道230号線沿いのルスツリゾートなどのホテル、遊園地ゴルフ場が立ち並ぶ地域です。国道沿いと少し入った場所で写真を数枚撮ります。
泉川地区
平民社農場は1904年、現在の北海道虻田郡留寿都村で社会主義団体、平民社のメンバーが設立した農場です。
平民社は1903年、東京で幸徳秋水と堺利彦が、平和主義と社会主義と「平民主義」を主張する新聞社として設立、社会主義運動の中心となりますが、1905年に政府の弾圧で解散、大逆事件で主要人物が逮捕されます。
平民社農場は1904年、現在の北海道虻田郡留寿都村の字泉川地域で原子基、深尾韶らが11.4haの土地を借り(北海道国有未開地処分法の適用を受けて)、入植。内地の政府の弾圧を逃れ、平民社の掲げるキリスト教社会主義の実践として、地主が小作人を支配する農場ではなく、自作農集団の社会主義的な農場の建設を目指します。
まず笹葺小屋を建て、森林を開拓しますが、農業素人集団で馬もいない為、初年の開墾は1.5haのみに留まり、収穫は自給自足するには足りず、東京の同志の支援を頼みます。おまけに、周囲の農家からは「東京からきた百姓でない百姓」「主義者の物好き」と馬鹿にされ、警察から社会主義者との情報も回り、信用されませんでした。
ですが、翌年も開墾の努力を続け、段々と周囲の誤解もとけ、逆に同情され、駐在巡査まで世話をしだします。前年と比べて作物の収量も増えました。しかし、火事で家屋が焼け、借金も発生。経済的に致命傷となります。火災後、脱退舎が続出し、翌年も開墾と農業は続けましたが、遂に3年目の10月、農場の解散を決定します。
道の駅ニセコ
最後の年の事。彼らは農場や近くの村で幻灯会(昔のスライド映写機の上映会)を開いて、寄付を集め、足尾銅山の鉱毒被害地・谷中村に送りました。また、彼らは、借金等で土地を失くした移住者や小作人を無料で宿泊させていました。自分達の暮らしが苦しい中でも、他者への思いやりを忘れない。それは平民社の精神の表れだったのでしょう。彼らの理想と実践は、有島武郎や武者小路実篤らの、農業共同体活動の先駆けとなりました。
ではでは、次の目的地、札幌に向かいます。その後は中山峠を戻って、留寿都、洞爺湖を抜けて、豊浦から内浦湾沿いに函館に行き(一般道路で)、フェリーで青森に渡ります。残り半日で。