農業共同体見聞録11 宮沢賢治 羅須地人協会
~訪問記~
次の訪問先の現存する農業共同体ではありません。昭和初期、岩手県花巻市で作家【宮沢賢治】が設立した、ユートピア「イーハトーブ」への試み、「羅須地人協会」です。
【ウェブサイトも開設しました!纏まった情報はそちらに掲載!】
http://matsuokakenji.wixsite.com/nougyoukyoudoutai
・1日目
10月31日(月)、前夜、函館から青森までフェリーで渡り、青森市内で車中泊し、今日は青森から秋田を通過して岩手へ行き、宮沢賢治の『羅須地人協会』を見学し、宮城経由で山形へ行き、古民家シェアハウス「つぶ亭」に泊まります。昨日に続き、超長距離移動になります!移動の詳細は割愛して、早速、『羅須地人協会』です!
函館で乗ったフェリー
青森を走る、奥羽本線
羅須地人協会は1926年、岩手県花巻市の宮沢家の別宅で作家・宮沢賢治が設立した、近隣農家に農業、科学、芸術などを教える私塾です。世間の誤解によって半年程で活動を休止、自信の病気で再開は出来ませんでした。ですが、宮沢賢治の農業や芸術や科学に対する考え方、理想・思想とその実践が表れた、特徴的な活動でした。
花巻市は、東の岩手を東西に分ける北上山地と、西の岩手・秋田を分ける奥羽山脈に挟まれた北上盆地にあり、南北に北上川が走る田園地帯です。協会の建物は花巻空港と北上川に挟まれた、花巻農業高校の中にあります。
花巻農業高校
羅須地人協会の建物は、もとは宮沢家の別宅で、木造2階建て、1階は10畳と8畳の2室、2階は8畳の1室があり、協会で使った1階の10畳の洋室は、当時の様子が再現されていて、黒板や椅子、オルガンや本棚が並べられていて、当時の雰囲気を知る事が出来ます。
羅須地人協会
1階洋室
建物周辺の庭園には、宮沢賢治の像や、宮沢賢治が発表した、「農民芸術概論要綱」の石碑、花巻農学校精神歌詩碑、などが並んでいます。また、花巻市内各地に、宮沢賢治記念館、宮沢賢治童話村、宮沢賢治イーハトーブ館などの関連施設が有り、宮沢賢治の足跡を辿れます。
宮沢賢治記念館
山猫亭
宮沢賢治は作家として有名ですが、同時に在野の農業人であろうと努めた人でした。1896年、花巻市川口で生まれ、岩手県立花巻農学校の教諭となり、農家の子弟を教育します。ですが、彼には葛藤があったといいます。農家の子弟に「農民になれ」と教えながら、自分は教職に就いて、給与を貰っている事に矛盾を感じていました。
1926年春、花巻農学校を退職。宮沢家別宅を改装し、自給自足生活を始め、同年8月、近隣の若い農家と共に、羅須地人協会を設立しました。昼間は田畑を耕し、夜は協会で講義を開き、集まった農家らに農業技術や自然科学や芸術を教えました。「農民芸術概論要綱」も発表、楽団の結成を考え、楽器の練習をしていました。
農民芸術概論要綱の碑
しかし協会の活動が社会主義教育と誤解され、警察に事情聴取され、1927年3月、協会の活動を休止します。賢治はその後も、農業指導や肥料設計は続けましたが、1928年夏、病気を患い、実家での療養生活に入ります。
その様な中で『雨ニモ負ケズ』の詩を書き、創作活動を続け、近隣農家の相談に乗りながら闘病を続けますが、1933年9月、自宅で家族に看取られながら死去。遂に賢治の死まで、協会の活動は再開されませんでした。
宮沢賢治の像
ですが、賢治は、死の前日まで近隣の農家の農業の相談に乗っていました。協会の活動という形はとらずとも、最後まで、故郷の花巻に、「イーハトーブ」の地に農業を通じて貢献しようという想いがあったのでしょう。
彼が勤めた花巻農学校は、現在は花巻農業高校となり、羅須地人協会の建物は、花巻農業高校の敷地に移設されています。花巻の地で農業を学ぶ生徒達を、宮沢賢治は今でも見守っているかもしれません。
花巻の田園地帯