~訪問記~
次の訪問先は現存する農業共同体ではありませんが、日本の農業共同体の先駆けともいえる「有島農場」です。
【ウェブサイトも開設しました!纏まった情報はそちらに掲載!】
http://matsuokakenji.wixsite.com/nougyoukyoudoutai
・1日目
10月30日(日)、9時過ぎに余市のビバハウスさんを出発して、南下して、余市と赤井川村の間のトンネルを抜けると…突如一面、雪景色に!余市は紅葉シーズンくらいだったのに、いきなり真冬!びっくりしました…。
突然の雪景色
慎重に走りつつ、赤井川村を抜け、羊蹄山を眺めつつ倶知安町を抜け、ニセコ連峰を眺めつつニセコに入ると、有島記念館に到着です。元は「狩太共生農團」という組織でしたが、解散し、今はその記念館が残っています。
私は北海道にいた頃、有島記念館に何度か来ましたが、写真撮影と資料購入の為に訪れました。でも、ここは何度来ても素敵な所です。ニセコの大自然と大正の浪漫が生み出す空気が何とも言えません…^ω^
狩太共生農團は戦前、北海道狩太村(現ニセコ町)で大正時代の作家、有島武郎が、農地を小作人達に解放し、設立した、土地共有、資材や機械の共同購入・共同利用、市場への共同・直接販売などを行った農民の組合です。
有島武郎は大正時代の日本の有名な作家であり、幅広い執筆活動をしていましたが(代表作は『カインの末裔』『小さき者へ』『生まれ出づる悩み』『或る女』『一房の葡萄』など。武者小路実篤、志賀直哉らと『白樺』発刊)、社会主義思想、トルストイ、クロポトキンに影響を受け、父、有島武(明治政府の官僚だったが、実業界に転身、成功した)から相続した、450ha (東京ドーム100個程) の農場を、小作人達に解放、共生農團としました。
1949年の農地改革で農團は解散しましたが、有島農場があった地に、有島記念館や関係史跡が残っています。
国道5号線からニセコ駅に抜ける道の右側に「狩太共生農團入口石碑(写真参照)」が立っており、入ると…
狩太共生農團入口石碑
有島記念館(写真参照)、有島謝恩会館(写真参照)、旧有島農場事務所跡があります。旧有島農場事務所跡は、解放前は有島農場の事務所 兼 有島武郎の住居、解放後は狩太共生農團の事務所、解散後は初代「有島記念館」でしたが、1957年に火災で焼失。1963年に元組合員や地域住民の協力により、有島謝恩会館が建設されました。そして、1978年、ニセコ町が有島武郎生誕100年を記念して、現在の有島記念館を設立し、今に至ります。
有島記念館
有島謝恩会館
また、有島武郎が小作人達に農場開放を宣言した、弥照神社(写真参照)、農場開放を記念して建設された、解放記念碑(写真参照)もあり、周辺には、かつて狩太共生農團だった農地(写真参照)が今も耕されています。
弥照神社
解放記念碑
農場
有島武郎は1920年頃、創作不振に陥り、その原因を、親譲りの財産、農場に依存する「悪い生活」にあると考え、それらを清算し、額に汗する生活を送る事で、自らの芸術を再生させる事を願い、農場開放を決心します。
1922年07月18日、弥照神社に小作人達を集め、小作人達が相互扶助的な自治組織を結成し、農地を共有する前提で、農地の無償開放を宣言。翌年、武郎は死去しますが、1924年、「狩太共生農團」が設立されました。
小作人は出資金を出して団員となり、総会、委員会等の合議制で運営して、農地共有、共同購入、共同利用、共同・直接販売等の事業を行いました。昭和の農業恐慌、冷害、借金返済、戦時の統制経済、若者の出征、資材不足、と多くの苦難を一致団結して乗り越えますが、1949年第2次農地改革で解散させられてしまいました。ですが、今では記念館が建設され、有島武郎と団員達の理想と実践の記憶は、今もニセコの地に息づいています。
有島武郎像